「陸軍兵曹藤井六蔵之墓」@旧大津陸軍墓地F02

コメント(全2件)
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松本博行 ― 2008-11-11 16:29
西南戦争からの復帰の途中である大阪で病死した人と考えられます。当時は火葬禁止令のあった時代で、大阪で死亡した人を名古屋に運ぶことは困難であったと思われます。当時の埋葬規則に二日以内に引き取り手が現れない遺体は、病死した関内の陸軍墓地に埋葬することになっていました。
BIN★→松本博行さん ― 2008-11-11 23:03
コメントありがとうございます。
西南戦争の傷病者の治療は、大阪衛戍病院がおこなっていましたが、大津市にも、その分院がありました。記録を見ると、「霊山」と書かれています。この名前に心当たりがあります。逢坂の関ちかくにあるお寺の名前です。確認するために、その場を訪れましたが、門は開かれませんでした。2日以内というお話ははじめて知りました。重ねてお礼申し上げます。
ところで、松本さんは、コメントの内容から、兵士像のことを書かれた学芸員の方なんでしょうか。兵士像については、興味があり、ぜひ見に行きたいと思っていました。まちがっていたら、申し訳ありません。

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