「大津(営所附)埋葬地」(=大津陸軍墓地)の建設プロセスを推察してみる
2007-11-15


●建設の動機

 大津営所附埋葬地という名称そのものが目的を表している。第九連隊の訓練中に死亡した兵を葬るための墓地である。
 第九連隊は明治8(1875)年3月に、大津に移転し、兵の訓練を開始する。4ヵ月後の7月にはすでに病死者が出ている。これらを葬る場所が必要となる。明治8年末には、建設計画は進行しはじめている。

●第一次工事の開始と完成
 
 明治8(1875)年から計画がはじまり、明治10(1877)年に用地買収も終わり、工事が行われる。

●当初の構造

 当初から、上段、中段、下段という三段構造であったのか、それとも二段構造であったのかを決める材料はない。しかし、上段の将校の墓地は、明治20年以降しか必要がなかたので、建設されていても、実際は、下段と中段しかなかったと同じである。
 当初の幅は、下段と同じだったと思われる。
 具体的には、真ん中の通路(下段、中段、上段と貫通)の左右に18メートルづつの幅で広がっていたと思われる。下段は、40数メートルの長さ、中段は、30メートル程度。

●本体以外の墓地

 実は、ここから、はみだす墓地が当初からあったのではないかと思われる。
 明治11(1878)年には第一期工事が完成していたはずだが、その工事が終わるまでに亡くなった下士官・兵が30数名存在する。それらの人々の墓地が、西側のガケのふちに建設されていたのではないかと思う。
 土地買収が終わったらすぐに、葬ったのかも知れない。
 工事の完成をまてないゆえに、予定の用地の外につくり、葬ったと考える。
 そういう事情から、下士官も兵もおなじ用地内に葬られたのだろう。
 西南戦争では、将校・下士官・兵は戦死した九州に葬られ、大津には合葬碑が建てられた。そもそも、西南戦争直後には、この埋葬地は影も形もなかったのだから、対応のしようもないのである。

●明治30年まで基本構造に変更なし

 完成した明治11(1878)年から、日清戦争までは、中段は下士官、下段は兵というように、丘の上から右から左へ並べるオーダーで埋葬が続けられた。

●墓地拡張が必要となった事情の発生

 増設工事が必要となったのは、明治28(1895)年の日清戦争への出征と台湾征服戦争が起こったからである。
 第九連隊が大陸に上陸したころには、休戦協定が成立していた。したがって、日清戦争の戦闘には参加することはなかった。しかし、講和条約以降も、遼東半島の守備を命じられ、そのときに、多数の病死者を出した。
 その病死者の墓地が必要となった。
 このために、明治30(1897)年に、中段を拡張することになった。
 その拡張は西側をさらに広げることである。
 たまたま、その方向のガケには、墓地完成までの病死者の墓地があった。ガケより山手をけずり、そこに遼東半島での病死者およびその後の台湾征服戦争に参加したときの死者を葬ることになった。
 これが第二期目の工事である。

●バイパスによる移転工事

 最後に、第三期目の工事。それが、昭和51(1976)年のバイパス開通にともなって、下段すべてを取り壊す工事である。下段の墓碑は、中段の西の谷を埋め立てた土地に移された。
 このように、増設は、つねに、中段を西側に広げる工事によって行われた。

 以上、私の推察である。いかがでしょうか?
[旧大津陸軍墓地]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット