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おそらくは、将校の縁戚のための墓地と思われる旧大津陸軍墓地のMブロック。現存する10柱のうち5柱までは、かかわりのある将校の名前が特定することができています。残りは5柱。
●外見は、将校墓地とは別々の印象
私が初めてMブロックの墓地を見たとき、同じ上段にあるものの、将校の墓地には偶然接しているだけだと思っていました。
見たところ、関係がないと思わせる形になっているのです。
将校の墓碑は、L字形に並んでいます。しかも、L字の内側に顔を向けて墓石は並んでいるのです。Mブロックは、L字の外側、つまり左側にあります。ですから、将校の墓碑のいくつかは、Mブロックに背を向けているのです。
しかも、名前だけが彫られていたり、戒名だけがあったり。ていねいに見ないと関係がわかりませんでした。今は、これが将校の縁戚の墓地だとはっきりわかってきました。
●夭折した今屋花子
墓石の横の碑文を読むと、わずか1歳でなくなっていることがわかります。明治43年6月22日のことです。
墓碑には、これだけしか書かれていません。しかし、この名前と時代を手がかりに、かかわりのある将校がいないかどうか、探してみます。
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