歩兵第九連隊の日清戦争での行動を追跡する :金州半島兵站病院
2007-11-20


●日清戦争で明治28年4月歿の墓碑は65基

 旧大津陸軍墓地の個人墓碑は559基。もっとも古い死亡年月日を持つものは、1872(明治5)年。最後は将校で1930(昭和5)年、兵卒では1924(大正13)年。
 このように旧大津陸軍墓地では、半世紀をこえる死者が葬られているなかで、1895(明治28)年の墓碑は、223基と群を抜いて多い。これはすでに見たとおりである。
 しかも、その年のなかでも、一番多いのが、4月の死亡者の墓碑である。日清戦争関係だけで、下士官が1基、兵卒が64基、あわせて65基ある。
 そのうちの5基については、すでに紹介した。それ以降について、見ていく。

●部隊は船中で待機?

大連湾には、4月11日と13日に到着するが、柳樹屯に上陸するのは、22日と23日になっている。戦地に到着しながら、10日もしくは11日後の上陸となっている。
 その原因はなにか。
 一方では、すでに17日に日本と清国の間に講和条約が締結されて、戦争が終わったということもあるだろう。しかし、それが原因ではない。「戦役経歴書」には書かれていないが疫病の蔓延が原因であった。
 船の中ですでに伝染病に感染しているとすれば、病院に搬送・隔離して、治療するのが当然のことである。だから、大連湾に到着すれば、部隊全体は船中に待機させたとてしても、病人だけをまず下ろすと考えられる。
 では、どういう病院が確保されていたのか。

●病院名が刻まれている旧真田山陸軍墓地

 同じ第四師団でも、旧真田山陸軍墓地の墓碑には、亡くなった場所だけでなく、病院名も刻まれている。そころが、旧大津陸軍墓地では、病院名がない。『大津市志』の「人物志」では、旧大津陸軍墓地に葬られている同じ兵卒の死亡場所として、病院名が書かれている。
 この違いはどこから来るのだろうか。

●兵站病院と検疫所

 「金州半島平坦監部各部編成表」(明治28年7月調)によると、検疫所が1つ、兵站病院が3つ、兵站病院と検疫所を兼ねるものが2つある。
 最大のものは、柳樹屯兵站病院で、二等軍医正をはじめ軍医が4名配置され、薬剤師、看護長などのスタッフが18、看護手8名、看病人70名となっている。
 看護人の規模がそれぞれ56名、50名とすこし人数はすくないが、医者などは同じ規模の兵站病院として、旅順口兵站病院金州兵站病院がある。
 それらの半分の規模で検疫所を兼ねているのが、大孤山兵站病院兼検疫所営口兵站病院兼検疫所である。それぞれ看護人は25名。
 検疫所単独では、大連湾検疫所があり、軍医が4名、看護長などのスタッフが11名、看護手7名、看護人17名がいた。

以上のことを念頭において、死亡場所を考えて見るべきだと思う。
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