「陸軍歩兵中尉従七位勲五等田中忠孝墓」碑文
2008-02-08


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旧大津陸軍墓地の田中忠孝墓の碑文には「奇兵隊」という文字が刻まれています。碑文全体を読んでみることにしました。

クリックすれば、大きくなります。

まちがっている点があれば、ご教授願います。

「幼字称防人山口県長門国阿武郡江向村住士族九右衛門四男也藩政之時入奇兵隊屡従軍後奉職於陸軍以中尉在陸軍歩兵第九連隊偶罹病明治二十年七月十七日終歿干時歳三十七年九月」

以上から、生年は、1849年11月あたりでしょう。
明治維新のときは、17歳ということになります。
 田中彰氏の先の本でも、戊辰戦争の官軍側の主力は、奇兵隊であることが、その犠牲者数の割合からもわかります。

 さて、東北の平定を終えたとき、明治政府の前に、直轄軍の編成が課題として浮かびます。

 どこから、それを生み出すか?

 下手に書くより、引用しておきます。

「天皇政府としては、いかにして直轄軍事力をもつかが焦眉の急であり、明治元年四月二十日には陸軍編成法を、ついで二十四日には同法の細則を決め、八月二十三日には、府県兵の規則を軍務官によって統一しようとしていた。そして、十月十日には、政府は諸侯による兵隊指揮を禁じたのである。
 翌明治二年には政府の軍事力集中はさらに進められ、四月八日には府県による兵員の新設は禁止された。」(121頁)

 明治政府は、奇兵隊を直轄軍(東京常備軍)として確保する意向でしたが、その数は未定でした。
 財政困難な山口県は、奇兵隊2000名を派遣することを希望しましたが、回答は1500名。
 細かい経過を省くと、奇兵隊員のすべてが軍隊に職を得ることができたわけではないのです。現在でいう厳しいリストラ=「精選」が行われることとなり、隊内に動揺が生まれ、やがて反乱へとつながるのです。
 その反乱が農民一揆との結びついたとき、明治政府は重大な脅威に直面します。奇兵隊とともにたたかったはずの、木戸孝允が先頭となり、厳しい弾圧を行い、壊滅させるのです。

 話を戻すと、田中忠孝は、同じ奇兵隊出身でも、農民や町民ではなく、士族出身であることがわかります。これが、新生陸軍に「精選」されるときでも、重要な要因だったかも知れません。
 旧大津陸軍墓地に眠る元奇兵隊員の田中忠孝は、いわば勝ち組となって、明治20年まで生き延びたといえます。
勝ち組といっても、おなじ奇兵隊出身の山県有朋(狂介)と比べれば、ささいなものにすぎませんが。
   最後に、いつから、第九連隊に配属されたのか、これだけではわかりません。第九連隊の士官には、多様な人たちが配属されていたことだけは、よくわかります。
[旧大津陸軍墓地]
[旧大津A(将校)]

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