歩兵「第十八番大隊」の姿を求めて
2008-10-06


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約一年、間が開いているので、自分がどこまで追求したのかさえ、わからなくなっています。それでも、澤地久枝『火はわが胸中にあり』などに刺激をうけながら、再度、「十八(番)大隊」について調べてみる気になったのです。
 ですから、これまでとの重複はお許しください。私個人のノートのつもりで書き込みます。

 そもそも中央集権をめざす新政府が自前の軍隊を必要としていることは当然のこととして理解できます。ただ、その創出の過程がどうなっていったのかについては、無知でした。
 戊辰戦争を終えたとき、当面、薩長土肥の4藩の藩兵をその用にあてたことは知られています。一方で、士族を擁した旧藩との対抗、他方で農民騒擾がおこるなかで、奇兵隊すらそのままで引き継ぐわけにはゆかない事情もあったことは、一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書)で知り、衝撃をうけました。
 戊辰戦争で亡くなった人たちと同様に、新政府によって切り捨てられていく奇兵隊の若者にも心ひかれました。
 それは、澤地さんが西南戦争で命がけで戦った徴兵された若者がその処遇への抗議と正義をもとめて「竹橋事件」を起こし、異例の苛烈な処分を受けたことと重なる思いがしたのです。

 ともかく、明治政府が軍事力をつくりだす過程は、思った以上に複雑で困難なものであったことを知ったのです。

 話を「十八番大隊」にもとにもどして。
 明治4(1871)年、四鎮台制ができます。東京、大阪、鎮西、東北。このときの兵力は、歩兵23大隊。このときは「壮兵」(旧藩の士族の志願兵)でした。
 十八番大隊は、大阪鎮台に属して、第一分営の小浜に配備される予定でした。彦根駐屯は、明治4(1871)年12月から明治6(1873)年5月までのことで、徴兵制へ移行する過渡的な兵力であったことがわかります。

 具体的に、彦根で、どういう任務を果たしたのか。
 記録で見ると、明治6年の3月に敦賀県、5月に北条県で起きた農民騒擾鎮圧に出動しています。

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 これが明治6年3月の記録。

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 これが明治6年5月の記録。
 この後すぐ、つまり同月に、伏見へ移駐します。
 明治6(1873)年5月から翌7年5月まで、伏見屯営第十八大隊と呼ばれることになります。

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 では、その後はどうなったのか。

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 上記の明治7年5月5日付け文書によれば、6月に第十八連隊の満期となる隊員はひとまとめに退役。第十八大隊の名称も廃止。残りの隊員を新徴兵とともに、第八連隊、第九連隊、第十連隊に配属する大隊に改組します。
 したがって、第十八大隊は、明治4年から7年まで、わずか3年間存在したに過ぎない壮兵部隊ということになります。

 このように文献でしか知ることのできなかった「第十八大隊」の兵卒の横顔を、旧大津陸軍墓地で垣間見ることができます。
[第十八番大隊]

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