レイテ島のたたかい(1944年10月)の戦死者の墓碑
2009-07-01


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かつて大津市に衛戍地をおいた陸軍歩兵第九聯隊
その戦歴と重ねて、個人墓碑の碑文を読んでいくと、
どういう流れのなかで、戦死という痛ましい事件が
起こったのかがわかってきます。

私は、そのたびに、ためいきとも、悲嘆ともつかない
声をあげることになります。

すこし、聯隊と戦死について振り返ってみると、
明治7(1874)年に創設された聯隊が
最初の戦死者を出したのは、1877年。
日本人同士が殺しあった西南戦争のなかでした。
この内戦での戦死者の墓碑は、現地、
熊本・七本官軍墓地(下の写真)などで見ることができます。

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海外へ出征した最初は、日清戦争でした。
しかし、遼東半島に上陸したときには、
下関条約が締結され、正式な戦闘には不参加。
守備隊として駐屯したのみでした。
しかし、恐るべきは疫病。
つぎつぎとコレラ、赤痢、腸チフスなどの病に倒れた兵士は、
旧大津陸軍墓地に(下の写真)200名近くが眠っています。

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正規の外国軍と戦った最初は、
日清戦争ではなく、日露戦争でした。
旧陸軍墓地には、階級別に4柱の合葬碑があります。
下の写真は、そのうちの2柱です。

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日露戦争戦死者の個人墓碑は民間墓地にあります。
大津市では、四角錘型ですが、
高島市にあるもの(下の写真)は、砲弾型をしています。

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その後、聯隊は、中国戦争に参加。
帰国後に、フィリピン戦線に投入されるのです。
最後のたたかい、そして、全滅したのは、
昭和19(1944)10月20日からはじまる
レイテ島のたたかいでした。

この最後の戦い(レイテ島のたたかい)で
戦死された若者の墓碑が、タイトルの写真です。
大津市内の民間墓地(岡山墓地)で見ることができました。
この墓地は、膳所烈士の墓碑があることでも有名です。

第九聯隊最後の地、そして、タイトルの若者が
戦死したレイテ島のたたかいについて、
わかる範囲で解説して、終わります。

レイテ島は、フィリピンの島です。
ここへ進出するアメリカ軍を迎え撃った戦いでした。
当初の計画は、フィリピンの中心ルソン島でした。
自軍の戦果を過大視した上層部が、レイテ島でも
陸軍による迎撃を決め、ルソン島の兵力もそこへ
集中したのでした。
しかし、輸送は失敗におわり、食料も届かず、
アメリカ軍に追い詰められ、残った戦闘部隊が
餓死するような悲惨な最期となった島でした。

フィリピン「防衛」にあたっていたのは、第十四方面軍。
その指揮下で、レイテ島を管轄していたのは、第35軍。
しかし、実際に、この島にいたのは、第十六師団のみでした。
第九聯隊は、この第十六師団に配属されていました。
第十六師団の兵力は、約2万人。

アメリカ軍は、10月20日に上陸。
わずか1時間の戦闘で、第十六師団は後退。
翌21日は、飛行場付近で防衛しましたが、
戦車や火炎放射器により、さらに後退を余儀なくされました。
師団の連隊長2名が戦死しました。
25日にはドラッグ方面のいた軍隊は全滅。
生き残った残存部隊は、増派された軍とともに
さらに悲惨な戦いを続けました。

一番上のタイトルの写真の墓碑を見れば、
「昭和19年10月25日 フィリッピンレイテ島戦死」
と刻まれています。
第十六師団でこの戦いに参加したのは、
18,608人。戦死は18,028人。
全滅でした。

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