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大津は戦場にはならなかったはずなのに、
なぜ、「於大津戦死」なのか?
この墓碑を見たとき、そういう疑問がわきました。
表の墓碑銘には、「陸軍軍属」の文字。
これ以外に、戦死の事情を知らせる文言はありません。
考えられるのは、空襲による死です。
大津市が最初に空襲・爆弾投下をうけたのは、
昭和20(1945)年7月のことです。
同月24日午前七時四十七分。
石山の東洋レーヨン工場に爆弾(模擬原爆)が投下されたのです。
『新修大津市史』によれば
大津警察署宛「空襲被害報告書」によれば、兵器部品倉庫付近に落ちた爆弾のため、死者十六名(従業員10、海軍軍属6)、重傷者13名を出し、倉庫・売店など800坪の建物を全壊、寄宿舎など1440坪の建物が半壊に及んだが、機材・設備に被害はなかった
さらに、7月30日。
7月30日午後3時半、下阪本村(現在の下阪本学区)の滋賀海軍航空隊にロケット弾14発が投下され、同時刻に大津市別所の大津陸軍少年飛行兵学校もロケット弾5発を見舞われ、死者1名を出す
どちらの空襲の被害者なのでしょうか?
墓碑には「海軍軍属」ではなく、「陸軍軍属」
となると、7月30日に戦死した1名の方では
ないでしょうか。
持ち場は、陸軍少年飛行兵学校。
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