昭和初期の若者の墓碑 −21歳で入営26歳で戦死−
2009-07-23


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戦死者の墓碑の碑文も多様です。
戦死年月日だけを記した簡単なものから、係累からはじまり軍隊歴を記載しているものまで。思いはあっても、費用は冷厳なものかも知れません。
 上の写真は、高島市。空に向かって屹立したりっぱな墓碑です。側面には、軍隊歴。
「昭和8(1931)年12月1日満州独立守備隊ニ入営満州事変従軍満州線守備ニ當ル」(数字はアラビア数字に変えてます)とあります。
「満州事変」(柳条湖事件)は、この3ヶ月ほど前の9月18日に起こっています。関東軍と中華民国が交戦。 この若者は、「事変」開始とともに、入営を促され、そのままこの戦争に参加したのです。
 その後の記述を見ると、昭和9(1934)年と11(1936)年に褒章されています。
「昭和12(1937)年9月15日充員招集ニ應ジ歩兵第十九聯隊第一機関銃隊ニ編入」
 私は想像するしかないのですが、満州独立守備隊は満州にいる若者を招集したものなのかも知れません。この若者は満州から高島郡(現高島市)に戻り、25歳で再度、招集されたと思われます。なぜなら、歩兵第十九聯隊(敦賀聯隊)は高島郡を管区としていたからです。
「仝年9月24日支那事変ノ為渡支人見部隊ニ属シ仝月28日呉松上陸仝年9月29日ヨリ翌年10月5日ニ到ル其間拾数回各地ノ戦闘ニ参加」
 「人見部隊」とは連隊長の名前を冠した部隊名。第十九聯隊のことです。
 再招集され入営した2週間後には中国での戦闘に投入され、それから一週間としないうちに(10月5日に)戦死したのです。
「昭和13(1938)年10月5日江西省瑞昌○王一塘ノ大激戦ニ戦死 享年26歳」
 墓碑を飾る褒章歴が戦死という事実の前に、一気に色あせていきます。
命にかえるものはないのです。
[高島市(旧高島郡)]
[日中戦争]
[民間墓地の戦没者]

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