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『高島郡誌』に掲載されている西南戦争の戦病死者は、
15名。それぞれの名前を見つめていたとき、
「この人たちの墓碑はどこにあるのか」という疑問がわきました。
戦死した場所か、旧真田山陸軍墓地か。
確かめる方法の一つは、『国立歴史民俗博物館研究報告』の102集「慰霊と墓」に掲載されている名簿を探すことです。旧真田山陸軍墓地の墓碑名簿がありましたから。
そこで見つけたのが、
日置住吉の墓碑です。 コードbヘ「B−17−11」。ただし、名前は「日置住・・・」。墓碑からは最後の一字が読み取れなかったのです。
墓碑には『高島郡誌』ではわからなかった部隊名がきちんと掲載されています。「大坂鎮台第九聯隊第ニ大隊」。しかし、「高島郡」ではなく、「高崎郡」となっています(下の写真)。別人ではない証拠に、墓碑から「滋賀県近江国高崎郡三尾・・・」と読み取れた部分の記載があります。「高島郡誌」では、出身地は「安曇村三尾里」。墓碑と郡誌を照らし合わせれば、相互にわからなかった部分が補完できるわけです。
私が旧真田山陸軍墓地で撮影した写真のなかにも、日置住吉の墓碑がありました。上の写真が正面で、下が右側面。
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『高島郡誌』では、戦病死年月日と戦病死場所が「明治十年六月二十九日 宮崎県三田村」となっています。墓碑(左側面=下の写真)では、「明治十年鹿児島県賊徒征討之・・・六日負傷日向国三田井村九月・・・陸軍臨時病院時廿ニ年二月・・・」と読み取れます。
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