禺画像]
日清戦争は、明治27年から28年のことです。台湾征服戦争を入れれば、明治29年まで。西暦では、1894年から96年の出来事です。
今から、110年も前の出来事です。
しかし、戦争の傷跡はいまだ消えていません。
日清戦争の戦病死者の遺族の方は、いまでも生きて足取りを探されていることと思います。そういう方からの問い合わせもお一人ではありませんでした。私は、少しでもお役に立てばと思っています。
このブログを始めた頃は、亡くなられたお方の名前を書くのをためらっていました。しかし、書くことによって発見される方がいらっしゃるのですから、あえて記録していこうと思います。
『新旭町誌』によれば、この町(現在は高島市の一部となりました)から日清戦争でお亡くなりになった方は、
4名となっています。お名前は、
大塚長次郎、
富田梅吉、
山田庄七そして
内田検次郎
上の墓碑は、
内田検次郎さんのものです。
場所は、
旧大津陸軍墓地です。
内田さんは、『町誌』では、明治3年10月19日生まれ。
陸軍歩兵第九聯隊に所属する上等兵でした。お亡くなりになったのは、明治28年5月1日。場所は、「清国王家屯」と書かれています。
墓碑では、お亡くなりになった場所がちがっています。
禺画像] 見ての通り、「沙家屯」となっています。
この違いが重要となるのかどうか、まだわかりません。
第九聯隊の日清戦争での足取りについて、2007年の11月に(このブログで)つぎのように書きました。
第四師団歩兵第九連隊は、日清戦争の休戦協定(3月30日)の直前に大津市を出征(
3月28日)し、広島に到着した。ここで約10日間逗留したのち、遼東半島にむかって
4月11日と
13日に宇品港を出向し、
4月14日と
16日に大連湾に到着した。だが、4月17日に、日清講和条約が締結された。21日、講和の詔勅が下りた。上陸前に戦争は終結してしまったのである。
第九連隊は、
4月22日と
23日に柳樹屯に上陸。
24日と
25日に「
沙家屯附近ニ在ル西華家屯附近ノ舎営地」(第九連隊戦役経歴書)に到着した。
内田検次郎上等兵は、このなかにいたはずです。そして、沙家屯に到着してまもなく、病名は書かれていませんが聯隊内に蔓延していた疾患によって、
5月1日に病死したと思われます。
セコメントをする