敗戦2年後の戦病死を刻む墓碑
2010-10-06


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大津市北部のある墓地で、「戦病死」と刻まれた墓碑を見つけました。昭和22年4月19日に亡くなったとあります。敗戦は、昭和20年8月15日。つまり、敗戦から戦病死まで1年と少しの期間があるのです。階級は、陸軍歩兵兵長。

この墓碑を目の前にして、考えを巡らしました。

 この「陸軍歩兵兵長」さんは、敗戦後、いつ日本に戻れたのか。そして、死去するまでの辛い日々をどう過ごしたのか。
 ご本人だけではありません。
 家族も複雑な思いで死を迎えたと思います。
 ”戦死は名誉、戦病死は不名誉”という社会的扱いを受けたことは、八代さんのコメントからもうかがえることでした。ですから、戦争への評価が180度逆転していく世相のなかで、どういう思いで、「戦病死」と刻んだのでしょうか。

戦病死の扱いについての歴史的経過を少し。

 日清戦争が終わったあと、靖国神社は二度の臨時大祭を行っています。一度目は、1895(明治28)年12月17日、二度目は1898(明治31)年11月5日。

 どういう違いがあったのか。

 大江志乃夫氏は、『靖国神社』(岩波新書 1984年)のなかで次のように書いています。横書きなので、漢数字をアラビア数字まじりにかえています。
95年の臨時大祭は、敵との戦闘で戦死したか負傷したのちに死んだ者を合祀する臨時大祭であった。これまでの合祀基準(明治11年6月27日太政官への伺)では、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は含まれていたが、戦病死者は含まれていなかった。日清戦争の戦没者1万3267名のうち1万1427名(うち海軍107名)が戦病死者(戦没者全体の86%)であった。 そして、こう率直に指摘しています。
 何より驚かされるのは、日清戦争直後まで、日本の国家は戦病死者を国家のために殉じた名誉ある死者として認めていなかったとことである。戦病死は不名誉な犬死とみなされた。しかし、実際の数字がしめすように、外征戦争における従軍戦没者の大部分は戦病死であるのが19世紀の世界の戦争の実際であった。このことは、クリミア戦争におけるナイチンゲールの活動のエピソードがしめしているとおりである。
98年の臨時大祭については、記事をあらためて書くことにします。
[民間墓地の戦没者]

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