遼東半島の青泥窪兵站病院で亡くなった「故陸軍歩兵軍曹梅村七松之碑」@四津川墓地
2011-08-03


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映画「ロック 〜わんこの島〜」のなかで、繰り返されるセリフがあります。「一週間で人は半分忘れる、つぎの一週間で残りの半分を忘れる」と。しかし、忘れなかった人たちとワンコがいたわけです。ですから、逆説のように思えました。それでも、忘れられないことがあり、忘れない人がいるのだと。
 戦争の記憶はどうでしょうか。悲しみの記憶をのこす人が亡くなると、それを引き継ぐのは難しくなります。墓碑は、形は世代を超えて残っても、思いが残るとは思えません。
 私のように、まったく見知らぬ人の墓碑を訪ね歩く、姿は奇妙なものでしょうね。墓地の関係者にモノを訪ねるときの怪訝そうな反応は何度も経験します。私は、石に刻まれた無念の思いに耳を傾けようと思いました。可能な限り、生きたという証を探しながら。

 さて、この墓碑は、日露戦争で亡くなった「陸軍歩兵軍曹 梅村七松」のお墓です。
 出身地は高島郡「本庄村大字四川」、兵種は「歩兵」、階級は「軍曹」、勲等功級は「勲七等」、戦病死年月日は「明治三十七年十月三十一日」、戦病死場所は「青泥窪兵站病院(病死)」と、『高島郡誌』には書かれています。
 いくつかの疑問があります。きっと、それらがこの軍曹の生きた姿につながる手がかりとなるのでしょう。たとえば、勲八等と勲七等の違いはどこにあるのか、功級がつくひととつかない人との違いはどこにあるのか。また、病死したという「青泥窪兵站病院」は、中国大陸のどこにあったのでしょうか。禺画像]  調べてみました。「青泥窪」とは、「大連」の旧地名。旅順の近くの商業都市です。梅村七松が病死したのは、明治37(1904)年10月31日。旅順要塞への攻撃の最中にあたります。
[高島市(旧高島郡)]
[日露戦争]

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