『滋賀村 戦時事績』から 〜日露戦争戦病死者3名〜
2011-08-05


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民間墓地をめぐり戦死者の墓碑を一つひとつ見て歩く----私には、普通となっていることですが、他の人たちから見れば、そうとう奇妙な振る舞いでしょうね。そのことは、承知しています。墓地を見て回るなんて、私自身も想像できなかったことですから---2007年8月までは。
 今年も8月を迎えます。4年間、こういうことをしているわけです。
 すべての始まりは、日露戦争の戦死者の墓碑を”発見”したことです。墓碑自身は、そこにずっと身近にありました。ですから、その存在に気が付かなかった自分に気が付いたということになります。
 その日露戦争の墓碑ですが、民間墓地に散在していることがわかってきました。高島市の経験でいけば、大津市でも、日露戦争のすべての戦死者・戦病死者の墓碑がつくられたにちがいありません。最初の頃は、全体の数にこだわることはありませんでした。いまでは、『高島郡誌』や『大津市志』の「戦病死者名簿」をもとに、すべての墓碑を見つけて、そこに祀られている若者の生に迫りたいという思いが強くなっています。
 大津市の場合、一つの問題があります。それは、合併を繰り返したために、『大津市志』は現大津市のごく一部をカバーするにすぎないことです。つまり、現在の中核都市となった大津市には、統一的な日露戦争の戦病死者名簿が存在しないということです。(靖国神社・護国神社には、名簿があるかも知れませんが)
 それを現大津市に合併された旧市や旧町村の日露戦争の『戦時事績』で補おうとしています。 しかし、膳所町のように、戦病死者の名簿を掲載しているものもあれば、滋賀村のように掲載しないものがあるなど、一様ではありません。
禺画像]  上の2枚の写真は、滋賀村の『戦時事績』の一部です。戦死者は、公葬として、盛大に行われた様子がわかります。なお、本文のなかに、戦病死者の名前が3名出ています。 ひとりは、磯谷辰之助で、もう一人は、小林金蔵、そして倉橋亀次郎。  これらを手掛かりにするしかありません。 「滋賀村」の日露戦争の戦病死者〜『戦時事績』から〜

 ○磯谷 辰之助  陸軍歩兵上等兵
   得利寺の戦いで戦死

 ○小林  金蔵
   遼陽付近の戦闘で戦死

 ○倉橋 亀次郎
[大津のこと]
[日露戦争]

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