禺画像]
旧大津陸軍墓地の
Eブロックには、207柱の墓碑が整然と並んでいます。しかし、このブロックが、日清戦争で命を落とした兵卒の墓地であることを示す表記は、どこにもありません。そもそも旧大津陸軍墓地についての文献は、ほとんどない状態です。
2007年の秋から、500を超える個人墓碑の名簿づくりをやってきました。1970年代に大津市が移設のために作成した名簿がありますが、決して正確とはいえませんでした。
禺画像] 上の写真は
Kブロックの墓碑ですが、これら他のブロックの墓碑には、個人履歴が大なり小なり刻まれています。しかし、
Eブロックは、簡潔な表記の墓碑ばかりでした。一つひとつ墓碑が与えてくれる情報は少なくても、全体をまとめれば、逆に一人ひとりの顔が見えてくるものがあるはずだと、思いました。
墓碑が、私にそれを望んでいるように感じました。
2007年の秋にも一度挑戦しましたが、最後まで果たすことができませんでした。今回は、わかるところまですべて形にしてしまおうと考えています。ですから、等身大の将兵の死の物語にもう少しおつきあいください。
それにしても、残念なのは、それぞれの出身地がわからないことです。公の市町村史で確認する作業をしていますが、個人名を書いていないものが多いのです。出身地は、文献で見つけるか、個人墓碑を見つけ、その地域であることを確認するか、のいずれしかありません。
『高島郡誌』はこの点では申し分のない文献でした。ですから、高島郡出身の若者の運命を中心にたどることにしたのです。
今回で、12回目。
11回目までに、明らかになったのは、大溝村大字勝野の
中村林蔵、安曇村大字三尾里の
日置卯市、饗庭村大字旭の
内田検次郎および高島村大字拝戸の
奥村久米蔵の死の状況のあらましでした。
次回は、饗庭村大字饗庭の
冨田楳吉を取り上げてみます。
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