禺画像]
旧雄琴村・寿命寺墓地の続きです。
戦死者の墓碑の一番左にある墓碑を見てみます。
墓碑の正面には、次のように刻まれています。
故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳
この正面の碑文からは、埋葬されている人の名前がわかりません。「義淳」なのでしょうか。どの戦争で亡くなったのかという問題もここからは答えがありません。
禺画像] 右側面を見てみます。
しかし、「明治廿八年・・・・台湾・・・・・・・・病死 三上政吉」ぐらいしか読み取れません。「廿八年」も微妙なところです。しかし、氏名が「三上政吉」、近衛歩兵と台湾の文字から考えて、日清戦争でなくなったのではないかと思います。
禺画像] 左側面の「
三上庄吉」は、建立された方の名前でしょう。しかし、そうなると、同じ三上庄吉さんが二つの墓碑(
三上秀哲と
三上政吉)を建立されているということになります。日清戦争と日露戦争の双方で?それとも、二つの墓碑は同じ日露戦争で? 旧雄琴村の日露戦争の「戦時事績」には、三上秀哲さんは、戦病死者として掲載されています。同じ日露戦争ならば、しかも、もしかしたら兄弟かもしれない三上政吉さんが掲載されないのは変ではないでしょうか。ですから、政吉さんは日清、秀哲さんは日露戦争で亡くなったと思います。
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