初めて聞くNさんの戦争体験
2009-06-02


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20年以上おつきあいのあるNさん。
80歳を超えたんですね。でもお元気。

今日の夕方、私の事務所で出会いました。

私は、バザーのことを思い出しました。

「ねえ、Nさん、Nさんたちのバザーに出すために、
冷凍庫を掃除し、消毒し、磨いておいたのに、
新インフルエンザで中止になって残念でしたね。」

それはどうもと、すまなそうに帽子を取るNさん。

「あれは、騒ぎすぎや」
「そうですね。大津で罹った人はとうに退院ですね。」

すると話は別の方向に。

「熱が39度になると髪の毛がぬけるんや。
 マラリアになったときがそうやった」
「え、そうなんですか。どこでマラリヤに?」

話は、一気に昭和20年に飛びました。

Nさんは海軍通信兵。横須賀の海軍通信学校卒でした。
そこではかなり、ビンタをくらったそうです。
卒業して、そこから実戦配備となります。
「大きい船はいやや、小さい船にしてくれ」
といったそうです。
「新兵のくせに、生意気や!!」
と上官からひどく怒られたとか。

「なんで、小さい船が良かったんです?」と私。
「大きい船は、上下関係(階級制度)がきつかった。
小さい船は、家族的。実際、なぐられたことは一回もなかった。」
「そんなことがよくわかったものですねえ。」

マラリヤにかかったのは、現在のベトナムにいたときです。
当時は、仏領インドシナという呼び名でした。
「かかってから、どうしたんです?」
「39度になってふらふらのときに、日本へ送り返された」
船で、広島か、どこかの海軍病院に送られたそうです。
しかし、日本に着く頃には、元気になってしまい、
すぐに「かえれ!」と戦地に逆戻り。

乗っていたのは、103哨戒艇。
ボルネオから原油を積んで、マニラに向かう
船団に配属されました。
途中で、マニラにむかうことをあきらめ、
台湾に行くことになりました。
ボルネオからインドシナ半島にそって、北上。
ハノイとサイゴンの中間あたりで、
グラマン戦闘機の一団に遭遇しました。

哨戒艇には、125人ぐらいが乗っていました。
対空機関銃を積んでいましたから、その要員の
分だけ、人数が多かったそうです。
昭和20(1945)年1月12日の早朝。
朝食準備の時間。上甲板から「なにか見えるぞ〜」の声。
「あれは、飛行機ちゃうか。どこのかなぁ」。
敵機と判明したので、機銃兵は上甲板へ急ぎ、
通信兵であるNさんは、「弾を運べ!!」といわれ、
船倉の弾薬庫に向かわされました。
たちまち、猛烈な音が響きます。
通信兵は、弾薬を上へ上へと運びます。
ところが、いっこうに受けとる気配がありません。
「おい、あがって見てこい!」となって出れば、
立って動いているものがいません。

「どうしたんですか?」
「上甲板は木甲板。厚い木で濡れているから、
グラマンの弾が跳ねよる。それで、みんな
腿をやられて、うずくまっていた。」

上官が叫びました。「退艦!退艦!」
ベトナムの海岸線から3キロほどの沿岸。
岸へいって、交渉して、漁船をチャーター。
それに病人、けが人を乗せました。

「元気なひとはどうしたんですか?」
「元気なものは、『お〜い、飛び込め!!』」
「泳いで岸へ逃げたわけですね」

そのうち、艦は、爆発音がして、真っ二つに裂け、
海底に沈んでいきました。

漁船で逃れたものと、泳いで逃れたものは、
海流のために、別々の海岸へ。
そこで隊列を整え、サイゴンまで戻りました。

「そこで終戦ですか?」
「そう、イギリス軍が来た」
「捕虜になって、沖仲仕のようなことをやらされた。
 そのときに、荷物で指を落とす大けがをした。

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[戦争と平和]

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