高島市の従軍者数と戦病死者数から見えるもの
2009-09-15


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上の写真は、高島市の各地にある日露戦争の戦死者の墓地の一つです。
 いまも当時の戦争の痕跡をこうして見ることができます。
 しかし、戦前の戦争が地域社会にどのような影響を及ぼしたのかは、墓碑からは、うかがうことができません。
 実際体験していない私には、推察するしかありませんが、各自治体が編集した『県史』『郡史』『市史』『町市』『村市』には、興味深い史実が載っています。
 たとえば、高島市(旧高島郡)。
 この地域と戦争との関わりを見るとき、たとえば、何人が従軍し、何人が戦死したのか、などは、大切な資料です。「明治十年西南戦役及び其後に於ける本郡の従軍人員数は今詳ならず、本庄村に於ける分は左の如し」と書かれています。
 本庄村は、いまは存在しない地名です。高島市の安曇川町の一部となっています。沿革を調べてみると、合併につぐ合併で、現在の市に成った様子がわかります。
 時計を逆回りにすると、次のようになります。
 2005年1月1日から現在の高島市。それ以前は、高島郡として、マキノ町、朽木村、今津町、新旭町、高島町そして安曇川町に分かれていました。旧安曇川町は、1954年11月3日に、安曇町・青柳村・広瀬村・本庄村が合併して成立。本庄村そのものは、1889(明治22)年4月1日に町村制が施行されたことにより誕生します。
 当時、どれだけの人口規模だったのか、調べていませんので、わかりませんが、この「本庄村」の従軍人員と戦病死者の人数が記録に残っているのです。
 それが、それぞれの戦争がこの村にどういう影響を及ぼしたのかが、わかるものとなっています。
 『高島郡史』(大正15年)によれば、以下のとおりです。
○西南戦争  従軍人員   3   戦病死者  1
○日清戦争  従軍人員  10   戦病死者  0
○日露戦争  従軍人員 120   戦病死者 10  ちなみに、元の記述は、西南戦争は「西南戦役」、日清戦争は「明治二十七八年戦役」、日露戦争は「明治三十七八年戦役」となっています。
 高島郡全体では、従軍人員は不明なのですが、戦病死者数は、わかります。『高島郡史』の戦病死者の名簿を数えてみると、
○西南戦役戦病死者         15名
○明治二十七八年戦役戦病死者  17名
○明治三十七八年戦役戦病死者 100名 となるのです。
 日清戦争と比べると西南戦争の戦病死者が多いように見えます。明確に「名古屋鎮台」という人もいますが、これらの人たちのほとんどが大津市に営所(基地)をおく歩兵第九聯隊の所属でした。この聯隊は、この戦争で、最も多く戦死者を出した部隊の一つだったのです。15名の死者のなかで、わかっているだけで、7名の方が、有名な田原坂で戦死しています。
 日清戦争は、最初の対外戦争で、戦勝につぐ戦勝で国民的な熱狂があったと聞いています。その一方で、17名の若者が亡くなっています。西南戦争とちがうのは、ほとんどが、病死だということです。
 日露戦争は、その死者の膨大さなどで、戦勝気分だけですまされない、深刻な影響を与えたことがこの数字からも、読み取ることができます。
 私が、この市の各地で、戦死者の墓碑をたずねていますが、この名簿のなかにそれらの方(ほとんどが20代前半の若者)がいらっしゃるわけです。
[高島市(旧高島郡)]
[西南戦争]
[日清戦争]
[日露戦争]

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