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農村部では、区や部落単位で共同墓地が存在します。その共同墓地には、戦死者の墓碑もいっしょに建てられています。ほとんどの場合、遺骨が還らないので、墓というよりは、
記念碑に近いものです。
戦病死者の墓碑の建て方には、一定の共通したルールがあるように思えます。
日清戦争や日露戦争の墓碑は、集落が経験するはじめての対外戦争での戦死者ということもあって、特別な位置に立てられています。たとえば、墓地の入り口(大津の石山、旧志賀町の木戸、南小松、高島の中野など)に建てられます。だれもが必ず通り、目にする場所に置かれています。
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その後、第一次世界大戦やシベリア出兵、日中戦争などで戦死者は加速度的に増えていきます。そのあたりまでは、大きめの墓碑として建てられていきます。
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しかし、戦線は拡大する一方で、太平洋戦争での犠牲者はそれまでの規模をはるかに上回りました。本来置かれるべきスペースが不足するという問題が生まれたのでしょうね。入り口付近に、一つの台座に複数並んでおかれているのをよく目にしますが、そういうことから、造られたのではないかと思えます。
だれが決めたルールかわかりませんが、どの墓地もその配列になっているようです。
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