あらためて「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎之墓」を眺める
2009-10-29


禺画像]
あらためて「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎」の墓碑を観察して見ることにした。なにか、ヒントになる記述はないのだろうか?
 左側面に「大正七年十一月七日歿」とある。
 西暦に直すと、1918年。シベリア出兵が8月に宣言され、たちまち米騒動が起こった年である。久保田砲兵曹長が亡くなった原因や場所、所属部隊など一切刻まれていない。なぜ、この地に葬られたかも、直接にわかるものはない。
 大正時代の墓碑は、陸軍墓地ではほとんど希である。下士官は遺族の希望により、遺族自身の費用でここに葬られていることから、一般墓地ではない理由があるはずなのだが。 禺画像]  真後ろには、「久保田芳子 建之」とあるが、夫人なのだろう。
禺画像] 右側面には、十字架と「愛」に続く文言が刻まれている。
[旧大津D]

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