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『大津市志』(昭和17年発行:非売品)には、明治30年代はじめの
陸軍歩兵第九聯隊(大津)について、次のように書かれた部分があります。
(明治三十年)九月、第九聯隊は
台湾守備として戦時一中隊を編成して出発、
台中に駐屯、同三十一年九月台湾守備交代、同三十二年五月交代、同十一月交代兵帰営。同三十三年五月台湾守備交代出発、同三十四年五月及び八月交代した。
上の写真は、正面に「陸軍歩兵上等兵山田庄七之墓」と刻まれています。その右側面には、「明治三十二年七月十三日台湾守備中干台中歿」
文章のなかの「帰営」は日本に戻ったことを意味するのでしょうけれど、「交代」はどうなんでしょうか。いずれにしても、中隊規模ですから100名程度。聯隊は1500名規模ですから、そのうちの少数。運命をわける選抜だったのでしょうか。
たしかレマルクの小説に『西部戦線異状なし』というのがありましたね。映画にもなりました。祖国を守る戦争にあこがれて、前線に出た少年が理想と程遠い異様な現実にぶちあたり、学校で教わることの欺瞞線に気づきます。再びもどった前線の塹壕。外に美しい花を見つけて、手を差し伸べたとき、一発の銃弾に頭部を貫かれて戦死します。
しかし、軍部の報告は「西部戦線異状なし」。一人の兵士が亡くなっても、異状なしなわけです。この22歳の山田庄七の死の場合も。
墓碑を見ていると、なくなった庄七のことだけでなく、これを建立した家族の思いがどうだったのかと想像してしまいます。
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