「陸軍歩兵一等卒大塚長治郎之墓」@旧大津陸軍墓地 〜帰国直前の無念の病死〜
2009-11-11


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日清戦争に出征した新旭町(現高島市)出身者は、4名。うち、1名(山田庄七)は戦争終結後、台湾守備の任務先で亡くなっています。残り3名の墓碑は、旧大津陸軍墓地にあります。
 上の写真は、「陸軍歩兵一等卒 大塚長治郎」の墓碑です。
 大塚長治郎は、明治2(1869)年5月7日生まれ。戦病死したのは、明治28(1895)年12月8日。25歳でなくなったのです。 場所は、「清国盛京省旅順口」となっています。
禺画像]  長治郎の死について、これ以上の記述がありません。
 ただ、『大津市史』(昭和17年)には、彼が配属された陸軍歩兵第九聯隊の動きについての記述がありますので、それをもとに想像することはできます。
 大津に営所をもつ第九聯隊は、日清戦争が勃発してすぐに戦地に赴いたわけではありません。明治27(1894)年11月26日に動員令が下りましたが、実際に、営所から出征するのは、翌明治28(1895)年3月28日となります。配属は、第四師団全体とともに、第二軍でした。
 4月11日に廣島の宇品港を出発。16日に大連、22日に柳樹屯に上陸。しかし、下関講和条約が締結されたために、5月17日には、第二軍の編成を解かれて、師団は遼東半島の守備につくことになりました。守備の任務を解かれたのは、12月のことです。大津へ帰営したのは、12月25日。
 大塚長治郎は12月8日に旅順口で亡くなっていますが、日本に帰国するために、旅順港までたどり着きながら、そこで無念の病死をしたと思われます。わずか25年の命でした。
[高島市(旧高島郡)]
[日清戦争]
[旧大津陸軍墓地Eブロック(日清戦争)]

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