「二等喇叭卒 鵜飼万治郎墓」@旧大津陸軍墓地 K136
2010-10-17


禺画像]
旧大津陸軍墓地のKブロックの最後列の墓碑は、全部で9基あります。そのうち、左の5つは、明治40年代に、彦根から移設されたものです。第十八番大隊の兵卒のもの。
 上の写真で見ても、左手に見える5柱は、形が違います。基礎の石も大きいし、かまぼこ型です。それらについては、すでに調べて、ブログに掲載しています。
 ちなみに、第九聯隊の営所が大津市に創られたのは、明治8(1875)年のことです。訓練中の病死者は、その年から発生しています。明治8年から11年までの、病死者の墓地はFブロックに置かれています。

  最初の墓碑は、「二等喇叭卒」という階級の兵卒の墓碑です。

「喇叭」=ラッパですね。
旧大津陸軍墓地のKブロックには、喇叭卒の墓碑が、あと2柱ぐらいあります。
西南戦争のときの第九聯隊の喇叭卒の墓碑が、旧真田山陸軍墓地にあります。「喇叭卒水口直次郎」の墓碑です。

基礎についてですが、Kブロックの墓碑には、一段のものもあれば、二段のものもあります。ざっと観察したところでは、旧い時代は二段、新しいものは一段のようです。

この墓碑の基礎は二段ですね。
碑文は、Kブロックでは、あとの時代になるほど簡略になります。鵜飼万治郎の墓碑の場合は、碑文は左右に分けて刻まれています。
後部はなにも刻まれていません。
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上の写真は右側面です。

冒頭に「滋賀県」という文字が読み取れます。碑文は二行。

風雪によって摩耗した碑文は、じっと目をこらしていると、断片的にわかるようになってきます。そして、文章としてつながってくるのですが、久しぶりなので、まだわかりません。

禺画像] 三番目の写真は、左側面。

碑文は様式が定まっているようです。

左側面には、「明治十年六月二日応徴大阪鎮台入営」などの軍隊歴からはじまり死亡の記事で終わります。つまり、入営年月日とか、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢などが刻まれているはずです。

・・・最後は「病死二十一年九月」と読めます。

他の墓碑の碑文と照らし合わせながら、さらにわかってくるので、そのときに、読み取った碑文全体を掲載することにします。

・・・(Kブロックでは)あと133基です。先は長いです。

写真撮影はけっこうな労働です。墓碑の回りを360度まわり、90度ごとにしゃがんで撮影します。1基あたり最低5枚、それを135回繰り返しました。日も時間も限られていますから、一気にやりきりました。二三日太ももが痛くて、階段が辛くなりました。
[旧大津陸軍墓地]
[旧大津K]

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