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墓碑に刻まれている死亡年月を見れば、「下段東側」では、上手から下手へと、墓碑が建てられていったことがわかります。常識的な順番です。 先の記事の図では、図の下が上手、図の上が下手。混乱しそうですね。
図の上の方にぽつんと独立しているのは、日露戦争の兵卒の集団碑。そちらではなく、図の下に、一基だけぽつんと上手に建てられています。
103番です。
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「陸軍歩兵二等卒竹村治三郎墓」。現在置かれている場所は、Lブロックの236。
資料では、明治42年7月。碑文では「明治四十二年七月二十四日死」とあります。
「下段東側」の最上部は、明治10年代の墓碑が並んでいる場所なので、なんらかの事情(順番で埋葬すべき場所が確保できなかったなど)でここに置かれたものでしょう。
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