禺画像]
以前にも引用しましたが、昭和62(1987)年出版の『マキノ町誌』には、つぎのような記述がありました。
各村では「村葬」として、村当局、在郷軍人会・婦人会・青年団・小学生たちなどまで遺骨を迎え、葬列を整えて小学校などの村葬会場に参集し盛大に霊を弔った。当時、各村にあった忠魂碑に合祀したのである。
忠魂碑は海津村では且過に、剣熊村では小荒路に、西庄村では広野に、百瀬村では新保にあった。
やつしろさんに案内していただいて回りましたが、4柱(戦前のものは3柱)とも、確認することができました。海津村と剣熊村のものは、すでに紹介しました。百瀬村の忠魂碑は、自然石をそのまま使ったりっぱなもの(上の写真)です。
驚いたのはそれが現在置かれている場所です。
禺画像] お寺の境内でした。
当時もこうだったのでしょうか。
田中墓地に行ったときに、結界をあらわす鳥居を見てカルチャーショックのようなものを感じました。今回のお寺の忠魂碑にも、そういう種類の衝撃を受けました。
この忠魂碑には、戦没者の氏名を刻んだ青銅製のプレートがはめ込まれていました。戦後に、はめこんだものです。これについては、別の記事で書きたいと思います。
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