西庄村の忠魂碑@高島市 〜もとの校庭に再建〜
2010-11-16


禺画像]
忠魂碑は、忠義をつらぬいた将兵を顕彰する碑。すなわち、天皇の名の下に行われた”正義の戦争”に殉じた将兵を顕彰することによって、現に生きている者たちをその戦争に駆り立てる役割を果たしました。犬死にではなく、名誉の死であると。
 その場所は、神聖なものとされました。
 岡の上に置かれて、町民・村民を見下ろしていたもの(剣熊村など)もあれば、地域の中心・教育の場である小学校におかれる場合もありました。
 忠魂碑は、さらに二度運命を変えます。
   第一回目は、敗戦のインパクト。敗戦直後に軍国主義の遺物として、米占領軍の圧力のもとで、廃棄されるようになりました。埋められて隠されたもののあるし、折られたものや、跡形もなく砕かれたものもあったでしょう。
 そして、二回目。まもなく復活する流れが生まれます。
 1951年にアメリカとの単独講和が成立したことを契機にして、掘り出され元の場所や別の場所におかれたり、新しく再建されるなどの動きが生まれました。
 私が目にしている忠魂碑は、どれも、この二つの運命を経たものなのです。

禺画像]   西庄村の忠魂碑は、どうか。
 戦後いったん廃棄され、ときを経て同じ小学校の校庭に再建されています。もとの石の形はわかりませんが、「忠魂碑」という名前はそのままでした。
 上の写真は背面ですが、「昭和二十八年八月十六日建立」と刻まれています。1953年に早くも再建されたわけです。しかし、もはや書は大将などの軍人ではなく、保守政治家になっています。「衆議院議員 堤康次郎 書」。
 写真の向こうに校庭が広がり、野球をする子どもたちが見えます。一代目の忠魂碑も、こういう形で戦前の子どもたちや合祀のために集まった村民を見下ろしていたと思われます。
禺画像]
 正面にはプレートなどがあり、興味深いものがありました。ですから、この碑については、また立ち戻ることにします。
 これで、海津村、剣熊村、百瀬村、西庄村というマキノの4つの村の忠魂碑すべてを確認できました。
[高島市(旧高島郡)]
[忠魂碑・慰霊碑など]

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