禺画像]
上の写真は、旧大津陸軍墓地にある日清戦争戦病死者の墓地です。左向こうに見えているのは、明治8年から11年までに亡くなった下士と兵卒の墓地です。
この墓地に眠る一人ひとりの若者の生きた姿とその死をできるだけリアルにつかむ---それが戦争の痛みを知る道だと私は思いました。
2007年に旧陸軍墓地を再会しましたが、これらの墓碑群を目の前にして、そうしようと決めました。
昨年までに、第九聯隊の戦史記録を読み、墓碑の死亡年月日と場所をたどりながら、一人ひとりがどういう様相のもとで亡くなったかがわかってきました。それらは、このブログで紹介しました。
いまやろうとしているのは、死の有り様ではなく、生きた姿を求めることです。その出発は、どこで生まれ育ったかです。つまり、出身地を明らかにすることです。
実は、それが容易ではないのです。
大津市が作成した埋葬者名簿があります。それをいちいち照合して私なりの名簿もつくりました。そこには、出身地や年齢の記述がありません。その名簿は、現存する墓碑から読み取って作成されたと思われます。しかし、日清戦争戦病死者の墓地の墓碑は、きわめて画一的。死亡年月日と場所は刻まれていますが、出身地や年齢などは、ありません。元の埋葬者名簿も求めましたが出てきませんでした。きっと失われたのでしょう。自力で調べるしかありませんでした。
出身地や経歴を調べる方法の一つが、『郡誌』や『市誌』なのです。
『郡誌』(高島郡、伊香郡などいろいろあります)の名簿と墓地の名簿を照らし合わせることによって、一人また一人と分かってくるのです。
実は、つい先ごろ、『近江愛智郡誌』を見つけて、さっそく作業をはじめました。その結果は、二三日前のブログに掲載しました。しかすぃ、墓碑名簿が、「あいうえお順」でないために、検索が大変でした。
それで、あいうえお順の名簿をつくったという訳です。
それが以下の名簿。
これまでの照合作業によっ判明した出身地は、氏名の横に記載しています。まだまだ少数です。私としては、すべての人のものを見つけたいと思っています。
この作業は実務的・事務的。現在とつながりのない作業に思えますが、そうではありませんでした。
それは墓碑をつうじての「出会い」があったからです。
この夏に、遺族の方がこのブログを通じて墓碑を発見されて、お墓参りができたそうです。私が調べた死に様についてもお伝えしました。墓碑の発見とともに、感謝されました。私の作業はムダではなかったのです。
その方は高島市出身の方でした。しかし、いまは故郷を遠く離れて生活されています。
この墓地は、陸軍歩兵第九聯隊の付属埋葬地(陸軍墓地)ですから、その管轄下にあった滋賀県出身者がほとんどのはずです。しかし、子孫の方は、現在滋賀県におられるとは限りません。移転などで遠くで暮らしておられる場合も多いでしょう。そうなると、墓碑の存在は忘れ去られることとなります。
陸軍墓地は陸軍=国家が管理していた墓地です。容易に近づくことができなかったと、近在の方はおっしゃっています。縁が薄くなるのは、そういう事情もあるかも知れません。
ブログに出身地などを掲載すると思い出していただける場合もあると思いました。
あわせて、出身地での墓碑の情報も大切だと思いました。
墓碑が旧陸軍墓地だけににあるとは限りません。出身地の共同墓地などに、立派な墓碑が建てられている場合があります。それは、この間の墓地見学を通じてわかったことです。問い合わせをうけて、旧陸軍墓地の墓碑の存在はつたえましたが、共同墓地までは調べていなくて、申し訳ないと思っていました。
最後に。
戦死者・戦病死者の墓碑は、一人の人でも、以下のように多重に存在しているのです。
@共同墓地
A陸軍墓地(すべての方がここではありません)
セコメントをする