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安曇川町田中墓地にある「
陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」。この巨大な墓碑について、もう一度考えることにしました。
この墓碑は、墓というよりは、記念碑だと思いました。建てられた当初の場所を教えていただきましたが、集落でも、目立つ場所でした。それは、共同墓地の中に建てられた(移動していなければ)宮野の吉田伊之助の碑とは、違います。
この墓碑は、いつ建てられたのか、
それはどういう時期、どういう事情だったのか。
陸軍輜重輸卒山崎松蔵は、高島郡安曇村大字田中出身。『高島郡誌』では、所属は、仁賀宗太郎と同じ、大阪第四師団工兵第四大隊となっています。亡くなったのは、
明治28(1895)年5月4日。清国金州兵站病院でした。
第四師団は、所属特科として、野砲兵第四大隊、騎兵第四大隊、工兵第四大隊、輜重兵第四大隊をもっていました。山崎松蔵は、輜重輸卒ですが、工兵第四大隊なんでしょうか。
禺画像] 墓碑の右側面には、「
明治三十二年三月 従三位伊藤紀書」と刻まれています。
「従三位伊藤紀」とはどういう人物なのかにも興味がありますが、戦病死してから、4年後に建立されたました。
戦没から4年間かかった理由はなんなんでしょうか。
それは、どういう四年間だったのでしょうか。
また、なぜ、明治32(1899)年だったのでしょうか。
私なりに考えはじめました。
最初に浮かんだこと−−−それは、靖国神社の発展と無縁ではないのではないかということです。
日清戦争とその直後の台湾征服戦争は、初の対外戦争でした。そして、膨大な数の戦没者が生まれました。数だけの問題ではなく、それぞれの集落にとっては初の戦死者体験でした。
そのような社会的な衝撃とかかわって、明治28年12月15日には、1,496名が靖国神社に合祀され、16日から18日にかけて、臨時大祭が行われました。もちろん、実際の死者に比べてあまりに少数の合祀でした。
村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)によれば、「こののち、日清戦争と台湾征討の戦没者の合祀は、調査の終了を待って数年間にわたって逐次行なわれ、その総数は一万四八○○余名に達した」のでした。
山崎松蔵の場合は、戦没から碑の建立まで4年かかりましたが、こういう「調査」と「合祀」の流れのなかで、碑が建立されたのでしょう。
いまの段階では、これ以上わかりません。直接的な資料を探しています。
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