日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?V 〜 「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」の場合〜
2010-12-04


禺画像]
高島郡の日清戦争の戦没者は17名以上でした。『高島郡誌』はその一部しか載っていません。それぞれの戦没年月日と碑(墓)の建立の年月日の関係は、どうなのかと思いはじめました。
 明治28(1895)年8月27日に戦没した吉田伊之助の碑が建立されたのは、10年後の明治38(1905)年12月のことでした。同じ明治28(1895)年5月4日に戦没した山崎松蔵の碑は、4年後の明治32(1899)年3月に建立されました。

 三番目に見てみようと思うのは、中村林蔵(『郡誌』では林造)の場合です。

 中村林蔵は、高島郡大溝村大字勝野出身。歩兵第九聯隊に所属する一等卒(『郡誌』では二等卒)。明治28(1895)年5月1日に沙家屯営病院で亡くなりました。  下の写真は、中野墓地に置かれている「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」の右側面の先端部分です。 禺画像]  碑は、明治31(1908)年7月15日の日付を持っています。つまり、戦病死してから、3年後です。
 もしかすると、中村林蔵は山崎松蔵より一年早く靖国神社に合祀された結果(想像でしかありませんが)を反映しているのでしょうか。
 碑文が参考になるかも知れません。 林蔵君高島郡大溝村中村利兵長男也明治七年四月十九日生焉二十七年十二月齢丁徴兵入第四師団大津分隊為歩兵第九聯隊第一中隊一等卒時會征清之役起明年三月有出軍之命乃君被撰抜属第二軍赴清盛京省大連湾扈衛北白川宮殿下既而轉旅順口又有兵站部之命将之缸瓦屯其間山墾遼遠露営連夜偶乃兵食缺乏不敢米粒三昼夜矣拉麺麺少許纔以飢經四日至食粥若麥奮迅踊躍而前間關崎嶇以遠是時金州城附近戦闘○○砲弾雨注硝畑漲空轟轟震山〓〓谷君勇奮盡務焉而役病歿享年二十三實五月一日也此事達皇太后陛下叡閨特賜弔賛又辱小松宮妃殿下頌歌且受恩給扶助特別賜金亦可謂以名誉焉矣郷人賞讃嘖嘖不己遺族咸不耐銘肝因勒之碑陰以為記念云爾
明治三十一年七月十五日 従二位勲一等子爵高島鞆之助篆額  岸本昌織撰文 大園重思書  高島鞆之助は、陸軍軍人で、明治28年当時は、台湾副総督の地位にいました。中村林蔵が台湾征服戦争で戦没したためですね。 禺画像] 裏面には、父中村利平の名前が刻まれています。
父が跡取り息子(長男)のために建てた墓碑・・・。
[高島市(旧高島郡)]
[民間墓地の戦没者]

コメント(全4件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット