日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?W 〜 「陸軍歩兵一等卒三矢松太郎墓」の場合〜
2010-12-04


禺画像]
旧大津陸軍墓地にも、日清戦争・台湾征服戦争の戦没者の墓碑が並んでいます。

 高島市出身者では、西庄村大字蛭口の井花長太郎、高島村大字拝戸の奥村粂蔵、先に紹介した中村林蔵、新儀村大字太田の大塚長次郎、饗庭村大字饗庭の冨田梅吉、饗庭村大字旭の内田検次郎、安曇村大字三尾里の日置卯市、安曇村大字常磐木の福井乙吉の墓碑があります。
 しかし、それらは、画一的で、碑文も簡素なものです。

 その一方で、共同墓地の墓碑は多様な形をしています。それぞれの集落が、身近な若者のために、それぞれの台所事情にあわせて建設したからでしょう。

 高島郡の田中墓地の「陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」や鵜川・打下の「陸軍工兵上等兵 仁賀宗太郎碑」は、驚くほど大きく、また立派なものでした。それとは対照的に簡素な墓碑がありました。永田墓地の「陸愚歩兵一等卒 三矢松太郎墓」です。他を威圧することの少ない文字通りの「墓」だと思いました。

 三矢松太郎は、高島郡大溝町大字永田の出身です。『高島郡誌』では所属部隊が不明だとされています。戦没年月日は、明治28(1895)年9月23日。場所は、牛馬頭患者宿泊所病院。
 私は、死亡場所と年月日から、三矢松太郎は、近衛歩兵だと考えました。水尾村の吉田伊之助は、近衛歩兵第二聯隊所属と『郡誌』では記録されています。
 墓碑が置かれているのは、農耕地の中にある永田共同墓地。
禺画像]  上の写真に墓地の中心となる建物が写っています。その手前正面の一番目立つ墓碑が、三矢松太郎の墓碑です。この墓地と集落にとって初めて経験する戦没者ですから、そういう位置に置かれたのでしょう。
 建立年月日は、かろうじて読み取ることができます。 禺画像] 「明治二十九年八月建之」
つまり、戦病死してから一年と経たないうちに、共同墓地に墓碑がつくられました。宮野の吉田伊之助が10年後、山崎松蔵が4年後、中村林蔵が2年後だということを考えれば、早い時期だと思いました。
 この墓碑には、左側面に文字が刻まれています。しかし、元が花崗岩の崩れやすい墓碑なので、もはや全体を読み取ることはできないと思います。読めるのは「明治」とか「干」ぐらいです。残念なことです。 禺画像]
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