「正気」の側に 〜原発事故から〜
2011-07-02


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チャップリンの「独裁者」は、ほんとうによくできていて、正気な社会とはなにか、狂気にとらわれた社会とはなにかについて、深く考えさせてくれる。
 ユダヤ人迫害が当然となった時代に、それに立ち向かうことは容易ではない。しかし、チャップリンが扮する床屋の主人公は、記憶喪失にかかっていて、しかも、ながく不在であったために、ナチズムの台頭と支配、ユダヤ人迫害の進行を知らない。つまり、床屋がもどってきた社会は、狂気と正気、正義と犯罪が入れ替わっていた。その認識のずれが、笑いを生み、笑いを凍らせる。
 たとえば、ユダヤ人の家屋・・・どの家でもそうだが、ドアをペンキで汚すのは、正常な社会では「犯罪」である。「正気」な床屋は、ユーゲントが行う犯罪を見つけて抗議する。だが、もはや、正義は床屋の方にあるのではない。裁かれるのは「正気」のほうである。
 そうして、映画は進行するが、狂気はやがて滅ぶことになる。
 
 1945年8月に旧大日本帝国は無条件降伏をした。戦争の実相を知った多くの人は、「なぜ、戦争が止められなかったのか」、「なぜ、狂気を止められなかったのか」と、自らに問いかけた。その答えとして、あるものは、やがて台頭してきた戦争を美化する者たちにむかって筆をとり、あるものは憲法を守る共同に命を燃やす。二度と、正気を失わないために。
 2011年3月、大震災と巨大津波、原発事故。
 「なぜ、原子力災害は防げなかったのか」と、私は自分に問いかける。「なぜ、『安全神話』を打ち破れなかったのか」と。
  ユダヤ人迫害やナチズム、天皇の名の下での人権抑圧と他国への侵略、それらと原発の『安全神話』は、比較するのがおかしいかも知れない。
 しかし、今回の災害とその被害者の姿は、利益優先の狂気からさめることを、「理性」を発揮することを痛切に求めているように思える。
 村上春樹がアメリカと日本にまたがる原発利益集団を名指しすることをせず、「効率」という考え方に主敵を定めたのは、普通の人間の意識改革と立ち上がりに期待したのだろう。
 それは、彼の言うように夢想家の声ではない。また、唯一の声でもないと私は思う。
[政治]

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