「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その15 〜営口〜
2011-08-30


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旧大津陸軍墓地に眠る日清戦争戦没者の足取りをたどるのが目的です。『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』、『戦役経歴書 第四師団第二野戦病院』などを使っていますが、わからないことが多いのです。
 兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
 『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
禺画像]  しかし、それは推察にすぎません。

 旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。  7月13日 営口 一等卒 梅山 竹二郎(80)

 8月 4日 営口 二等卒 山田 藤吉(185)
 8月10日 営口 一等卒 谷 傳蔵(190)
 8月21日 営口 一等卒 伊庭 米二郎(8)
 9月 4日 営口 一等卒 宮村 多治郎(72)

10月 5日 営口 一等卒 恒木 丈太郎(192)
11月 1日 営口 一等卒 勝見 市蔵(26)
11月 6日 営口 一等卒 井上 幸太郎(22)
11月 7日 営口 一等卒 今井 源松(7)  4月、5月、6月は一名もありません。

 そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。

 地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十qの距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
 柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。
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