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広島でも倉敷でも時間は限られていました。大原美術館に入場できたのは、入場の締切時間である4時30分。30分間の駆け足の見学には悔いが残りました。
大原美術館の入り口をロダンの二つの彫刻(「説教する聖ヨハネ」と 「カレーの市民―ジャン=デール」)が飾ってあります。戦争とは無縁でなかった像−−−大原美術館そのものの説明を引用させてもらいました。
「説教する聖ヨハネ」「カレーの市民」の両作品は、1922(大正12)年、児島虎次郎がロダン美術館で交渉し、鋳造してもらったものです。 1939(昭和14)年、太平洋戦争が勃発。1943(昭和18)年夏、ロダンの銅像2体に金属供出命令が出されました。 当時の館長、武内潔真は、直ちに回収免除の申請を岡山県に提出しましたが、免除される見通しは暗いものでした。
日本は、長引く戦争によって多くの労働力が軍や軍需産業に従事し、物資の不足から生活必需品さえ入手困難な状況に陥っていました。 少ない物資は軍需優先。さらに兵器製造のための金属を集めるため、金属類回収令が出されたのです。
美術品、文化的遺産といえども例外はなく、すでにお寺の仏具や釣鐘などが供出されており、 さらには仏像、銅像、鉄びん、文鎮、学生服の金ボタンまで供出しなくてはならないほどでした。
その年の秋、岡山県物資課職員、審議会委員による視察が行われました。 職員、委員の何人かにも供出を惜しむ声があったそうです。 審議会では、その他の供出物件ともあわせた報告書を県に提出しました。
「供出の必要なし」
岡山県が出した決定でした。 岡山県下で約170体の銅像が供出されることとなり、残されたのは大原美術館のロダン2体を含め、7体のみでした。
日本の文化財であってもこの命令が免除されることは稀であった上に、ロダン作品は敵側の芸術作品。 この決定はまさに奇跡的とも言えるのではないでしょうか。
たしかに、奇跡という気がします。岡山県がどういう過程をへてそう決断したのか知りたいと思いました。
余談ですが、10代だった私がロダン展に行って、最も興味を引かれたのが「カレーの市民」でした。「カレー」の意味も最初はわからず、集団像の写真を買って部屋に飾りました。なにかにひたすら耐える大人達の姿は高貴であるとは思っていました。
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