戦争の記憶を伝える墓碑を求めて
2013-09-03


禺画像]
墓地をめぐり戦死者の墓碑を一つ一つ記録していく−−これが私が2007年夏から続けてきたことです。

 しかし、2012年の6月を最後に、墓地をめぐることをやめてしまいました。2011年11月と2012年6月に見た墓碑の記録も残さないままになっていました。
 ですから、再開するにあたって、Yさんに案内されたこの2度の高島市での墓地見学の結果から、はじめたいと思います。
 
 少し、解説を。

 戦死者の墓碑の実在と所在を確認するもととなっているのは明治の末期に出版された『高島郡誌』です。ここには、「明治十年西南役戦病死者」、「明治二十七八年戦役戦病死者」(=日清戦争)および「明治三十七八年戦役戦病死者」(=日露戦争)の名簿が記載されているからです。
 その数は、西南戦争が15名、日清戦争が17名、日露戦争が100名。
 調査をしはじめて明らかになったことは、それらすべてが実在する可能性があることです。ただ民間墓地には、それぞれの墓碑について解説があるわけではありません。ほとんど碑文が消えたものがあります。わずかなくぼみと墓碑の形状などから、かろうじて判断できる墓碑もあります。
 二度の見学の結果、西南戦争の墓碑をあらたに2基確認できました。それは、私にとって、大事な出来事といえます。
 一つは、井上龜吉(広瀬村大字上古賀・歩兵)、もう一つは、朽木雄六(朽木村市場・少尉)。
 これにより、南部由松、岸嘉七、日置住吉とあわせて5基の実在と所在地がわかったのです。
[西南戦争]
[民間墓地の戦没者]

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